わかろうとすること


今、吉田秋生さんのマンガ『海街diary』を読んでいます。


数年前に映画化もされました。

父の死をきっかけに出会い、同居することになった異母姉妹をめぐる、

鎌倉で生活する人たちの日常を描いた物語。


前の日記にも書きましたが、人の数だけ物語がある。

そして、それは視点を変えると同じ出来事も違って見える。


物語の中で、自分以外の誰かの苦しみや悲しみを理解することについて触れている部分が、

とても印象に残っています。

10人の人がいれば、10通りの苦しみや悲しみがあって、

それをお互いに完全に理解することなんてできない。

やろうと思ってもそれは不可能だから。

たとえ、似たような立場であっても、完全に理解することはできない。


自分が他の誰かを理解できないように、他の誰かも自分の事を理解することはできない。

ただ、わからないんだけど、一生懸命「わかろうとする」ことはできる。

それが寄り添うということで、思いやるということだと思う。

その「理解し合えることはないけど、でもわかろうとしているよ」ということが、

お互いにわかっていれば、そう思っていれば、

いろんな諍いや誤解はきっとなくなるんだろうなぁ、と思います。


私は20年近く前、とてもつらい思いをしている人を目の前に、

「なぜ私は理解してあげられないんだろう」と苦しんでいた時期がありました。

自分は経験したことのないその苦しみを、軽々しく「わかるよ」とは言えなかった。

でも、今思い返すと「つらいんだね」「大丈夫、ずっと私はあなたの味方だよ」

そういう気持ちで、時には立ち止まり、時には駆け足で

伴走するように寄り添うだけでよかったんだな、と思います。


飛び続けた鳥が羽根休めをするための止まり木、

走り続けて疲れた馬が疲れを癒す水飲み場、

ほんのひと時、落ち着ける『癒し』になること。

これが、一番うれしいことなんだと今はわかる。


自分以外の誰かを、理解したような気になるのは傲慢だと思った。

理解できないから、少し知ろうとしたりわかろうとしたりする。

それだけでいい、と『海街diary』を読んでいて、

若かりし頃の自分を思い出して、少し心がぎゅっとなりました(^^)

facomi to usachan

Tomoko Terahara / NANANOKO_pianeta Illustration