低いとは?
先日、ごはん屋さんで近くのテーブルに座っていた3人組の会話が「???」過ぎて、つい聞こえてくるのを聞いてしまった。
一人は霊に憑りつかれたのでお祓いをしてもらった云々、というかなりヤバそうな話なのでできればノータッチで(^^;
もう一人は、自己肯定感が低いので上げるためのセミナーに参加するという話。
もう一人は、ただそれぞれに共感している様子の人だった。
で、自己肯定感について持論を書きたい!
「自己肯定感が低い」
私の非常に苦手なワード・・・。
そもそも、自己肯定感に低いも高いもあるのか?と単純に疑問に思う。
自分を受容できているかできていないか、のどっちかじゃないのだろうか。
私は自分を受け入れているので、(肯定というよりかは受け入れている、というニュアンスの方が近い)前述の方々の「低いか高いか」で言うと、めちゃくちゃ高いになると思います。
だからといって、自分を非の打ちどころのない完璧な人間だとは全く思わないです。
苦手な部分ももちろんあるし、大好きな部分もある。
そもそも判断基準が「良い/肯定・ダメ/否定」ではなく「好き・苦手」で、それ自体も明確に分けたりしないので、「否定」というのが自分の中に存在しない。
自分だけは自分の一番の理解者で味方だから絶対に否定しないし、嫌いになんかならない。ずっと大好きでいたいと思う。
自分を受け入れているからといって、何事も自分が正しいとも思わないし、あらゆる場面で自分の感覚を疑うこともする。
思い込みで判断していないか、自分が間違えているかも知れないぞ、という発想は常に持っています。
結局、そんないろいろを全部ひっくるめたのが自分で、苦手な部分があるからって否定などできません!というだけの話なのです。
どうしても許すことができない、というくらい自分に嫌な部分があるのなら、改善する心がけや努力を都度都度すればいいし、その一部分だけで自分を貶めたり、大嫌いになったりするなんて、自分がかわいそうじゃないか・・・。
ただ、寛容に自分を見守ればいいと思うんです。
環境を変えることで改善するなら、可能な限り変える。
改善するために必要なことがあるのなら、可能な限りやる。
人生というのは思っているよりかは、多分あっという間に終わってしまう。
自分のことを否定し続けて苦しめている時間が、私はただただ惜しいと思ってしまう。
「自己肯定感が低いから、これで爆上がりですよ」的なことを言っていた近くのテーブルの人は、おそらくセミナーに参加しただけでは爆上がらないんじゃないだろうかと思う。
自己肯定感が低いのではなく、自分の嫌な部分を認めることから逃げているだけだと思うから。
嫌な部分も全部ひっくるめて「おい、自分。これが私だ!文句あるかよ。」と胸張って思えないと肯定はできない。
それができない限り、否定し続けることになるのだと思う、と心の中で思ったという話でした。
憑りつかれた云々の人の話は、違う意味でめちゃくちゃ怖かった。
高い水の話とかもしていて、この人破滅するんじゃないかな?とぞわぞわした(^^;
※追記※
文章を書いた後は、時間をおいて視点を少し変えたりしながら同じテーマで何度も再考する癖があるので、文章も都度修正したり書き直したりしています。
「自分を否定しない」=「自分を肯定している」というのは少し違うのかもしれないな、と考えていて思ったのですが、「肯定している部分もあるけど、肯定も否定もしない部分もある。」というのがしっくりくる気がします。
「自分のこういうところ、嫌なんだよなー」と思うことって多くの人にあることだと思うのですが、私は「嫌だなー」と思いながら、ずっと過ごすのが嫌です。
嫌だったら嫌じゃないようになるまで、考えてトライ&エラーを繰り返して、試行錯誤します。「好きにはなれないけど、とりあえず嫌いではない」というところまでいろいろ試してみる。何年もかかる場合もあるけど、嫌なまま何年も過ごすよりずっといい。
否定している場合「自分が納得する」以外ないので、他人にいくら「それあなたのいいところでもあると思うよ。」と言われても、永遠に解決しないんじゃないかと思う。
結局、自分の見たいようにしか見ない、受け取りたいようにしか受け取らない人が多いので、他人の目を気にするわりに他人の意見は聞かない・・・という謎。
いろいろ考えていると、別に肯定も否定もなんにも必要ない気がするな・・・と思えてきます。全肯定したからって突然世界が変わるわけでもないし、なんでもできるようになるワケでもない。肯定とか否定とかにこだわらないで、ただ自分にも他人にもなるべく優しく、目の前のことに取り組んで、どうすれば自分を幸せにしてあげられるだろうか、って考えて生きればいいんじゃないだろうか・・・と思う。
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