自分だけの定義



最近、ふと誰かと接していて「この人しあわせそうだな」とか「この人はしあわせではなさそうだ」と感じるのはなんだろう?と不思議に思いました。


以前『ふと思ったこと』という日記でも書いたように、「しあわせ」とはかたちのないもので、その定義は自分自身で決めるものだと私は思っています。

そしてそれには正解も不正解も存在しない。

私は私の定義でしあわせを感じ、ほかの誰かは別の定義でそれを感じる。だから、私が「この人はしあわせそうだ」とか「しあわせではなさそうだ」と感じるのは本当は変だと思う。

だから「なぜだろう?」と疑問に思いました。


私は去年入籍したのですが、随分と長いこと一緒にいて結婚したので「そろそろ入籍するか」って感じでプロポーズらしいものもなかったなー、とすっかり結婚記念日とか忘れてて今日思い出したんですが(まだ1回目なのに・・・!)当時、一つだけ夫に力説した記憶が…。

それは、「一緒にしあわせになろうな」ってことです。

一緒にってことはどっちかがしあわせだと感じて生きていても、片方が不幸だと感じていては成立しません。

双方がしあわせを多く感じるためには、自分がしあわせにならなければいけないということです。なぜかというと、しあわせの定義はお互い違うからです。自分の定義を相手に当てはめても、それが相手にとってしあわせかどうかはわからない。だから、一緒にしあわせになるためには、自分がしあわせでいることが必要だということです。だから、自ら「自分なりにしあわせをちゃんと感じて生きる」という覚悟というか自覚が必要?なんかそんなようなことを、しきりに力説した記憶がうっすら(^^;


私が「この人しあわせそうだな」とか「しあわせではなさそうだ」と感じたその正体はこれではないかな?と思いました。

しあわせそうな人は見たまんま「なんかしあわせそうな顔してるなー」って感じです。そういう人は話しているとわかるのですが、ちゃんと精神的に自立していて、自分の気持ちもパートナーのことも尊重できる人が多いなと感じます。

逆に、しあわせそうじゃない人は、自分で自分をしあわせにしよう!という感じが全然しないのです。なんかとても抽象的ですが・・・。「誰かにしあわせにしてもらいたい」とか「私がしあわせになれないのはアイツのせいだ」とか、そんな他人まかせな感じが伝わってきます。それではたぶん永遠にしあわせだと気付くこともできないのではなかろうか、と本当に大きなお世話だと思うけれど、私は思ったのです。


覚悟というとちょっと大袈裟です。要は、誰かが決めた定義で自分を推し量らずに、自分はどういうことにしあわせを感じるのか、どうしたいのかを自分でわかろうとすることです。そして、なるべく自分の思う定義で日々の行動を決めて生きていくだけのことです。


最近、「この人はいつ会ってもしあわせそうだなー」っていう人と、「この人いつも誰かや何かのせいだと言い訳をしていてつらそうだな・・・」と感じた人がいて、とても対照的で「なぜだろう?」と疑問に思ったので、なんの足しにもならないことを考えてしまいました。


私が自分で決めた定義も今後いろいろと変わっていくのだろうけど、定義が変わっても覚悟?(というには大袈裟ですが)があればきっとブレないでいられるはず。たぶん。  

facomi to usachan

Tomoko Terahara / NANANOKO_pianeta Illustration